院長より」カテゴリーアーカイブ

院長からの情報発信です

旅 エジプトへ

 今年の夏も、月並みなパッケージツアーに参加し海外旅行に出た。行先はエジプト。観光はしたが、行程をこなすに十分量のエネルギーが、今の私には不足していた。まさに気候が年齢不相応であった。
「後悔先に立たず」、3日目には風邪から発熱、4日目は午後の観光スケジュールをこなせず。何よりも旅の1日目から気温が熱(高)過ぎたため、観光した場所を記憶するのがやっとであった。

そんななかで、やはり以前観たものに関連するものは、記憶に残った。

Ⅰ ルクソール神殿のオベリスク

 パリのコンコルド広場に立つオベリスクの対のオベリスクが、ルクソール東岸にあるルクソール神殿の入り口左側に建っている。紀元前1200年代の新王国時代、第19王朝のラムセスⅡ世が対で建立したものだそうだ。いくつものオベリスクがエジプトからローマのバチカン広場、ロンドン、ニューヨークなどに移築されている。このパリにあるオベリスクの対の物は、ヒストグリフ(象形文字)が美しく刻まれ残っていた。(写真①)

(写真①)

Ⅱ メンカウラー王の三柱像

 カイロのエジプト考古学博物館にこの像が3つ展示されていた。紀元前2500年代の中期の王様であったメンカウラー王は、ピラミッドで有名なクフ王の孫である。3つの石像は王様の右にハトホル女神、左にジャッカルの女神(ハトホルやジャッカルではなく人間の姿であるが)や男性が刻まれていた。彫刻は繊細で美しく、特にジャッカルの女神が撒いている布の薄さの彫刻は素晴らしかったので印象に残った。さらに、ガイドさんがもう1つの石像が米国のどこかの大学にあるとアナウンスしていたと記憶している。帰って来てネットで検索したところ、ボストン美術館に収蔵されているとのことであったが、何処かの大学の考古学研究室の所有なのだろうか。(写真②③④)

(写真②)
(写真③)
(写真④)

 エジプト考古学博物館には、ツタンカーメン王の墓から発掘された黄金のマスクに代表される財宝が多数展示されている。ツタンカーメン王は夭逝しているにもかかわらず、財宝は驚くほど多数である。クレオパトラ以降エジプトはローマ帝国に支配されてしまったが、どれほどの財宝がエジプトの地から運び出されてしまったのであろうか。

Ⅲ ロゼッタ

 大英博物館でロゼッタストーンを見たときの感動は、今でも忘れられない。以下はエジプト航空の広報誌にあった記事である。
 言うまでもないが、ロゼッタストーンは地中海岸の町、ロゼッタで発見された。アレキサンドリアにあるカイトベイ要塞の修復のために、この地を訪れたナポレオン時代のフランス兵が発見したものだ。フランス人の学者の「シャンポリオン」は1882年、古代エジプトのヒストグラフ、デモティクス(エジプト人の使った文字)、ギリシァ語の3つの言語で石、つまりロゼッタストーンに刻まれた宗教文書を解読した。このことから、エジプト考古学は大きな発展を遂げ、エジプト文明は次々と解明されていったのであろう。石に文章が刻まれたのは紀元前196年で、僧侶たちがファラオ(王)に向けて書いた宗教文書だそうだ。
 ロゼッタはアレキサンドリアから7Kmほどの町である。町の名前からこう呼ばれて来た。1500年代のオスマン帝国時代は、ロゼッタはイスタンブールに最も近いエジプトの港町として栄え、町にはギリシア人、トルコ人、ヌビア人、ヨーロッパ人が集った国際都市であったようだ。しかしその後は衰退したため、現在のようなヤシの木の通りが町に続く、自然の豊かな美しい町の姿が残ったようだ。エジプトはこの町を世界遺産に推薦している。さらにロゼッタにはフランスの軍人メノウ将軍と町の美しい娘ズバイダとの、ラブストーリーが市民たちに話しつがれているとのことだ。それはズバイダにとって悲劇的な結末であったが故に町の人々の心に残ったのだろうか。ツアーの行程にアレキサンドリアやロゼッタが無かったのは残念であった。(写真⑤⑥)

(写真⑤)
(写真⑥)

2017年1月に起こったノロウイルス感染症

当院でのアウトブレーク

  • 病棟内は、一般病院とは大きく異なる患者様の動きがあった
  • ノロウイルス感染症アウトブレーク時には 病棟内の環境特性を踏まえた感染防御対策が必要

ノロウイルスの臨床像

  • 症状
    • 下痢、腹痛(小腸の炎症)
    • 吐気、嘔吐(胃運動神経の低下)
    • 発熱、筋肉痛、頭痛
  • 便
    • 水様性の下痢便もしくは血便
  • 潜伏期
    • 12時間から72時間
  • 発症率
    • 40~70%
  • 経過
    • 一般的には1日から3日で後遺症なく治癒

北1階男性病棟の発症者の特徴

  • 発症者は19名であった
  • 1月2日の発症者は早朝食事前の空腹時であった
  • 4名ともが、元気で動きの多い患者様であった
  • 1月3日の発症者も、動きの多い患者様であった
  • 1月8日以降の発症者は、感染経路に当該病棟職員の介在があったと考えた
  • 1月15日が発病患者最後の発症日であった
  • ノロウイルス簡易検査陽性者は2名のみで2日と5日の発症者であった

北2階女性病棟の発症者の特徴

  • 発症者は14名であった
  • 1月2日の2名の発症者の嘔吐発症時刻は、AM2:00であった
  • 当該病棟では、消化器症状を発症した患者様が、14名中13名とほとんどであった
  • 1月9日以降の発症者は、当該病棟職員による感染拡大が起こったと考えられた
  • 1月10日の発症者が最後であった
  • ノロウイルス簡易検査陽性者は、4名で1月4日、5日、10日発症者であった
  • 給食スタッフが体調不良を訴えたため、この経路での感染と考えた

本館2階女性病棟の発症者の特徴

  • 感染者は10名であった
  • 1月5日に嘔吐者が1名あったが、1月8日以降の病棟内での感染拡大による発症者が6名あった
  • 当該病棟内での感染拡大は、病棟スタッフを介して拡大したと考えられる
  • ノロウイルス簡易検査陽性者は、1月9日嘔吐で発症した、1名のみであった

本館3階男性病棟の発症者の特徴

  • 当該病棟の発症者は7名であった
  • 1月2日の発症者のうち、2名は職員で発症後、即時勤務中断、帰宅した
  • もう1名の発症者は、前日からの外泊からの帰院患者であった
  • 1月7日からの発症者は、病棟内感染拡大が考えられた
  • ノロウイルス簡易検査陽性者は、1月2日発症の患者様1名のみであった

今回行った感染対策と実施状況

1月2日未明からの感染性胃腸炎の集団発生と判断、1月4日感染対策会議をおこなった。

  1. 発症者のコフォーテイング(病室を1病室とする)をおこなった
  2. 感染対策マニュアルに従って、食器をディスポーザブルの物に変更していった
    しかし、準備が万全でなく、正月休暇中であったため北1階病棟からしか、開始できず、全病棟の食器をディスポーザブルに変更できたのは、4日の夕食であった
  3. 嘔吐や排泄物、発症者の食事の残飯は感染性廃棄物として徹底して処理した
    1. 発症患者の食器および残飯は感染廃棄物扱いとした
    2. その他の患者様の食器はプラと燃えるごみに分別した
      残飯は汚物として廃棄した
  4. 全病棟で、検査は早急に必要なもののみ、買い物は職員の代行、外出・面会一時禁止、外来も、緊急を要する時のみとした

スタッフの感染対策に対する実施状況

  • 感染発症当時、感染源部署が感染性胃腸炎発生との事実を認めようとしなかった
  • 発症当初、当該病棟スタッフも感染性胃腸炎と認めようとせず感染委員長への報告が、遅れた
  • 嘔吐下痢した患者の着替えの際に、汚染衣服を次亜塩素酸ナトリウム溶液で消毒せずに、洗濯にまわしていた
  • 再三の感染研修にもかかわらず、スタッフ全員に汚物処理の手順が徹底されていなかった
    • コホートされた部屋のポータブルトイレの汚物を捨てる際、ガウンを脱いでトイレに運ぶなどの行動が見られた

<総括>

  1. 速やかな、感染発症の発見が最も重要
    発症を疑い、速やかに情報を共有し、速やかに防御対策を開始する
  2. 職員全員に対する、感染防御行動が徹底されていなかった

今回のノロウィルス感染症は、症状が軽症であったため、どうにか事なきをえた


当院で起こりました、ノロウイルス感染症のアウトブレークをまとめてみました。
皆様のご意見、ご批判などは、下記メールアドレスにおよせください。

今村純子